圧倒的に語彙力が足りない備忘録

底辺系理系学生が思ったこととか考えたことを、つらつらと書き連ねる備忘録です。

とある村の数奇なエピローグ

時は196X年、日本が高度経済成長に沸く頃、野田県の山あいに杉城村という活気溢れる村があった。この村は小さいながらも農業と林業で栄え、山あいということで冬には雪が沢山積もるのであった。
これはそんな杉城村の数奇なエピローグである。


時は流れ201X年、かつては活気に溢れ2000いた人口も、今となってはわずか800である。その残された村人もほとんどは年老いた老人ばかりで、多くいた若者も近隣の街や遠く離れた都市へ就職と共に離れていったのだ。「子どもは地域の宝」とはよく言ったもので、以前は夕方になると少年達の遊ぶ声が聞こえてきていたようなのだが、今は夕方になってもひっそりと静まり返り、寂しげな雰囲気を醸し出している。
村の外れの少し高くなったところに、村唯一の小学校と中学校がそれぞれ隣り合って建っている。人口が2000いた頃は、村ということもあって一学年に数クラスとは言わずとも、一学年30人程はいてとても賑やかだった。しかしこの杉城村も少子化の波には抗えず、中学校では両手両足で足りるぐらい、小学校でももう一人分の 両手で足りてしまう有り様であった。しかし少人数だからこそ生徒どうし、生徒と先生の仲は非常に良く賑やかな学校生活が送られていた。あの日までは。

しかし行政にとっては少人数校と言うのは頭を抱えたくなるような存在だった。生徒が少ないのにも関わらず教師は並の学校と同程度必要で、校舎の維持費もかかる。そして少人数のため生徒たちは切磋琢磨出来る状況になく、特に体育や音楽の合奏など実技科目は困難を極める。このままでは通常のレベルの教育が出来ないのである。
そんな中、持ち上がったのが近隣の中学校との合併である。近隣と言っても車で30分以上かかるため小学校は見送りとなった。これには村人は賛否両論だった。「通常の授業が出来ないのでは子どもが可哀想、合併すべきだ」「あそこは村人全員にとっての母校。何より学校は地域の活力だ。」
合併の話しが出てから様々な話し合いの場は設けられていたが、すぐに決着がつく訳もなく、結論が出るのに10年ほど要していた。しかし結局は3年後を以て閉校し、その春より統合することとなった。
ところがここで少し考えれば分かりそうだが予想外のことが起きた。三年後に既に中学校に在学する子を持つ家庭が、在学中に転校しなければいけないことを危惧して小学校卒業のタイミングで近隣の街に転校しだしたのだ。そして田舎の学校ではありがちなのだが全校生徒は数人兄弟の何家庭かで構成されているため、一家族が引っ越しただけでもとても少なくなるのだ。


時は更に進み、三年後の中学校閉校が過ぎたあとである。このときご存じの通り中学校は閉校、統合したため勿論生徒はゼロである。では小学校はどうか。相次ぐ転校により10人程になっていた。一応言っておくが一クラスではない。全校で10人である。

私が直接見聞きしたのはここまでであるため、この小学校や杉城村が今後どうなっていったかは知る由もない。それ故、これから言うことは古い友人づてに聞いたことことであり、確証はないのであしからず。

その後、10人程ではどうしようもなく程無くして見送られていた小学校も統合された。相次いだ転校により親世代の30代や40代はほとんど残っておらず、村に残されたのは米寿を迎えるような老人ばかりで、杉城村は超高齢化社会と成り果てていた。このときには既に人口は数えるほどになった。
そして最近、最後の数人もいなくなり遂には地図から杉城の名前は消えたとか消えていないとか。